北京で遊んだ思い出   

2007年7月 水谷康司


「ミイーズタニー」と誰かが自分を呼んでいるなあーと感じながら、列車がポイントを通過する振動で目が覚めた。不寝番の交代時間だった。
デッキに立って外を見ると、どこかの駅らしく、朝もやのなかに山海関と書いてあるのが見えた。釜山を出てから二日目に中国の領内に入ったのだ。
ここからは、遠く連なる万里の長城を眺めながら更に三日の車内旅行は続く。仲間は四十名もいるが、運動不足のために両脚にむくみの出る者が二人三人と出始める頃に、やっと山東省の済南駅で汽車の旅は終わった。
これは私が22才だった昭和19年1月で、64年も前の昔話である。

今年の7月はじめに、長男夫婦から
「三泊四日で北京旅行をするが、一緒に行かないか」
と誘われた。
若いときに三年もの苦しみに耐えてきた中国なので、その後はどうなったかを知りたいとの想いもあって、同道をすることにした。

7月4日午前10時に成田空港を出てからは、高度1万メートルの雲海のなかを飛んでいるので何も見えないが、12時30分には北京首都空港に着地した。

所要時間は二時間半であった。
空港では従業員の明るい歓迎につつまれて、私達同行の三十名は待機していた観光バスに乗り代えた。
添乗員は中年の男性だが、流れるような日本語で自己紹介と運転手を紹介した後、日程を変更した理由の説明があった。今日と明日が入れ替わったので、バスは天安門に向かうべく動き始めて高速道路へ這っていった。

 北京の交通事情

東京の高速とは何か趣きの異なった感じがするのは、北京の道路は両側にある建物がどれも高層ビルばかりで、道路に襲いかかるように見えるからであろう。 それより、高速・一般を問わず走行している車の台数は東京よりも多いのではないだろうか。 総人口は日本の10倍以上であるから、車の台数が多いのも当然であろう。
ガイドは「日本には車のラッシュアワーという時間帯がありますが、北京では一日中がラッシュアワーです」 と言っていた。私の記憶にある中国の街と、目の前に展開している光景とでは余りにも激しい変わり方なので、ただ目を見張るばかりで浦島太郎の心境になっていた。
バスは、その渋滞をクリアして天安門広場に到着した。

 天安門広場にて

ここは昔から皇居(現在の故宮)の玄関口なので、64年前の当時は民間人の近寄れる所ではなかった。 兵隊時代に警備のため楼上に登った覚えもあるが、その頃も天安門と呼んでいたかどうかは定かではない。 周囲には高い建物は一つもなく、北京市街を一望する事が出来た。 ぎっしり詰まった民家の瓦が赤緑青と混じって、遥か彼方まで続き、それが朝日や夕日に映し出されると、 大海原のうねりを見ているような錯覚をしたものだ。 また建っている家屋の柱や梁は煤けて黒ずみ、天井が見えないくらいに薄暗かった。 壁や土塁もここかしこと剥がれていたのが、歴史の尊さを誇っているかのように感じたことが思い出される。

それが今では色彩も鮮やかに芸術的調和を保って、中華民国の表象に相応しい容姿を存立させている。門前は広大な広場に変わって、広場を取り巻く周囲は高層建築物が林立して、天安門を擁護しているかのような景観である。
今日は、快晴なこともあってか、広場はかなり人出で賑わっていた。私達は天安門をバックに記念写真を撮ってから故宮院へと歩き出した。

 故宮院見取図

故宮院は紫禁城とも呼ばれて、明・清朝時代まで二十四代もの皇帝が政務をとったり、居住をしていた居城である。建築は1400年から始まった古代木造建築で、殿堂・楼閣など合わせると八千七百棟もあるとのことだ。日本では足利義満が金閣寺を建立した時代にあたる。
古い映画だが「ラストエンペラー」で紹介された、豪華絢爛な就務室と王座等を自分の眼でしかりと拝観することが出来た。

 故宮院王座

宝物の大半は台湾に持っていかれたとの事だが、見るべき箇所は結構あって、昔の皇帝の権威とはいかなるものかを、伺い知ることが出来た。
一時間半ほどで故宮院を退去してバスに戻った。

次の目標地は頤和園(いわえん)だが、出発の時に買ったスニーカが新しいのか馴染みが悪く、痛さと疲れが重なってか、食事を採った事も覚えていない。
まだ一日目だというのに情けないと自分を叱りつけながらも、皆の後に続いた。

 頤和園にて

頤和園は北京の中央から15キロ離れていた。万寿山と昆明湖で構成された造景林で、世界的にも有名なうちに数えられている。

 頤和園と昆明湖

頤和園は1153年に帝王によって作られたが、その後何世紀もの間、何度となく各皇帝が行幸された所で、古い立派な建物が幾つもあって、それらが山紫水明と調和している素晴らしい庭園である。

 頤和園の正殿内にて

頤和園の建物のなかには、中国の三国志時代の経緯を語る絵画が何枚となく掲げてあって、ガイドが説明に汗を流していた。当時の日本は平清盛が全盛を極めていた時代である。

頤和園の公園内を歩いていると、高齢の男性が太くて長い水筆で路面の石盤に日本字を書いている場面に出会った。
彼の書いた字を見ていると、私の習字の虫が疼き出した。それを見抜いたかのように、彼は私に何かを書いてくれと懇請して来た。
言葉は分からずとも、以心伝心である。いつの間にか、彼の筆を私は手にしていた。園内は見物人で混んでいる。それも中国人ばかりで、その視線が一斉に私に注がれているのを意識すると妙に硬くなった。

 路面に字を書く筆者

机上で書くのなら臆びはしないが、路面ではどれだけの大きさに書けば良いのか判断が出来ない。さりとて辞退も出来ないので腹を決めて、行書体で水谷と書いて、筆を彼に返した瞬間に拍手が起きた。中国人は人を褒めるコツが上手だ。彼も「很好, 很好。」とねぎらってくれた。まさに中国旅行でなければ味わえないパフォーマンスだった。

 国家體育場「鳥巣」

日も大分傾きかけて来たので、バスは市内へ戻りはじめたその途中で、オリンピックの主要場所になる 国家體育場「鳥巣」を車内から見せてもらった。中国が国をあげて招聘をした催しだけに、 さすがに立派な建物であって国民の意気込みが感じられた。

 サーカスの曲芸

市内で食事を済ませてからサーカス劇場に入って、一時間半くらい曲芸に魅入っていた。 幼い子も演じているのを観て、あそこまでやれるには並々の練習ではないだろうと、その強固な意志と行動に感嘆した。

バスは市内を出てから暗闇のなかを一時間走ってホテルに着いた。附近の様子どころかホテルの名前も わからず、玄関のロビーで部屋の割引券をもらい、部屋に入りシャワーを浴びて、驚きと感動の一日は終わった。

 宿泊したホテル

二日目の朝は「お父さんご覧なさい。ここは万里の長城のそばですよ」と長男に起こされた。6時を 廻って外は明るい。
窓のカーテンを開けると、土塁の裾が目に入ってきた。昨晩は闇の中なので、あたりの様子もわからなかったが、かなり大きなホテルらしく、玄関には「居庸関長城古客桟」と書かれた額が掲げてある。ホテルの名前なのか別の意味なのかも分からなかった。

 ホテルから見る万里の長城

 宿泊ホテルの前にて

嫁に「御来光を拝みに行きましょう」と誘われるがままに外に出た。
2〜3分歩くと広場になっている。
城門らしい建物があって「元代建築物遺址」と書かれて保存されている。ここでは、この城門だけが柵に囲まれてあるだけだが、実に精巧な細工が施されている。

 城門の前にて 筆者

元代といえば日本の鎌倉時代に当たるが、その頃の中国は建築のみではなく、あらゆる文化が開花していて日本はその恩恵に浴していたのである。
瞳を山の方に向けると、城塁が長々と続いている。朝日が長城の上に来るまでには、かなりの時間がかかった。7時30分には朝食を済ませたが、特別にうまいとは思えなかった。

 中国のホテルでの朝食

 万里の長城の上の朝日

今日のスケジュールは、万里の長城へのチャレンジだが、果たして脚は大丈夫であろうかとの不安も募ってくる。
ホテルを出たバスは幾つもの山坂を下り、約一時間半くらいで目的地に着いた。そこは、市内から80キロ離れている登城口の八達嶺である。宿泊していたのが長城の麓だったので、すぐにも登城ができるとの思い込みは甘かった。

 万里の長城

地球以外の月からでも長城の存在がわかると言われている建造物で、世界遺産にもなっているのだ。管理が厳しいのは当然で、どこからでもと言うことはあり得ない。車から降りると目の前には切り立った石段が、私たちの挑戦を歓迎するかのように待ち受けている。これを見た瞬間、体中に震えが走った。

 長城の石段にて

紀元前5世紀に、北方の騎馬民族の侵略を防ぐために築いたのが始まりで、秦の始皇帝が三十万の軍隊と数百万の農民を動員して、全長6700キロの城塁を完成させたと言われている。
塁上は幅1メートル半ほどの通路だが、平坦な部分は極めて少なく、ほとんどが緩急のついた坂や石段で隣りの見張所へ行くのにも精が切れる。こうした通路が山々を越えてどこまでも延々と続いているのを見ると、圧倒されて足が先に出ないので見張所を三ヶ所ほど行ってから、広場に戻ることにした。
個々にスタートした仲間たちの全員が揃ってから記念写真を撮り、30分後の出発まで休憩することにした。

 万里の長城に登城

広場はかなり広いが登城者の数も多く、特に小学校の見学団体が幾組も来ていた。私の隣りにも四、五人のグループが腰をかけて話し合っている。またぞろ、私の虫が疼き出し、教わった中国語を使ってみたい衝動にかられて、つい「対不起。我們是日本人。清問, 今天儿号?」と話しかけてみた。突然に聞かれたので、お互いに顔を見合わせていたが、ややあって一番大きい女の子が「今天七月五号, 星期五。」と返事をしてくれた。
私の発音が通じたのだ、浅い日程の危なっかしい中国語だが、学習の効力があったと感じたとき、無性に嬉しさがこみ上げて来た。 だが、これ以上に話を続けるとボロが出るので「謝謝, 再見。」で話を切ったが、彼女は話を続けたい唇であった。
私にとって万里の長城は、一万里以上の想いが叶ったことで、命のある限り忘れられない思い出となった。 馥郁(ふくいく)とした余韻に陶酔しているうちに、バスは次の目標地である明の十三陵に向かっていた。

 十三陵分布図を前に

ここは、明代における十三人の皇帝とその皇女の遺体を納めた丘稜で、中国では神聖な地域の一つである。 駐車場に着くと、そこからは参道と呼ばず神道と呼び、象や馬の石像が並んで丘陵を守護している。 本殿までは、1.5キロの道のりで、その地下入り口から30メートル下には地中大宮殿があって、生前と同じ生活が出来るように、造られている。

 第三代永楽帝の棺床

一番奥まった室に第三代永楽帝の棺床があったとの話だが、全体の施設があまりにも観光的に整備されているので、その雰囲気が感じられない。
だが、何世紀もの間に出入り口も発見されずに埋葬されていたことは、年代の差こそあれピラミッドに劣らない技能を有していた民族だったと感じた。
「北京に行くなら十三陵を忘れずに」と教えられた言葉が思い浮かんだ。まさに一見に値する価値のある遺跡だった。

 天壇公園にて

 殿堂「天壇」の天井

私たちは、そこから次なるターゲットの天壇公園に向かった。この公園には、円型の建物が一つあるだけだが、「天壇」という高尚な名称で呼ばれている。建物は家屋全体を八本の円柱で支えているが、釘や梁は一本も使っていない。堂の内部や天井は豪華絢爛で形容の言葉も見い出せない殿堂だ。 ここは、明・清代の皇帝が五穀豊穣を祈願した祈祷殿で、歴代皇帝の位牌が納められている神聖な建造物である。壁に向かってささやくと、反対側の人に声が伝わる回音壁だというが、試すことは出来なかった。

 北京ダック

夕方の食事は、市内だろうと思っていたが、バスは再び山の方にと向かった。長城のライトアップが眺められる食堂で採るとのことだ。
この食堂での中国料理と中国名物の北京ダックを紹介するのが目的だったらしいが、あいにくと油物が好きでないので、全く魅力は起きなかった。
夕食が済んでからは、京劇を観る予定なので再び市内に戻った。京劇というから単独の劇場であろうと思っていたが、市内にはポスターやそれらしい看板も見られず、大きな共同建物の中にあったので戸惑ってしまった。更に内部の客席シートも変わっていた。舞台のかぶりつきには、食卓があって劇を観ながら飲食をするようになっている。給仕が派手な動作で酒を注いで廻っていた。 はじめは舞台の下で立回りの稽古をしていると思ったが、思い違いも甚だしかった。

 京劇の演目より

劇の内容は、言葉が理解出来ないので、さっぱりわからなかったが、身体の動きは昨晩のサーカスを凌ぐ激しさで、双方の区別はどこが違うのか判断がつけられなかった。京劇が幕になってから、主演者の口上があった。「私たちは中国の歴史を後世に正しく伝える責任がありますから、一生懸命稽古に励んでいます。京劇は北京だけのものですが、どうか今後もよろしくご支援なされてください」と流暢な日本語で挨拶をされた。

 京劇の舞台挨拶

確かにこれからの地球平和を保つには、日中友好の絆をより強くしなければならない。それには京劇を通して中国を知ることも一つの方法であろうとの、強い印象を受けながら劇場を後にしてホテルに向かった。

三日目の今夜、市内の高級ホテルでの宿泊だが、ここは玄関にはドアマンもいるし、従業員の接待態度も品格がある。ロビーは広く階段も絨毯敷で、室内やバスルームも整備されている。
ただ着替えやパジャマは置いていない。昨夜もその前もホテルでは寝間着は出さない習慣らしい。
いずれにしても、三泊四日の中国旅行は全て終わり。明日の午前8時には北京空港に行き帰国するまでになった。
疲れもあったが名残惜しい気もするので、すぐ眠りにもつけず三日間を振り返ってみたが、あまりに何ヶ所も見て廻ったので、日程と場所が混同してしまった。
だが長く生きているおかげで、65年前の思い出が再現出来たのである。夢にも考えていなかったことだ。
あの当時に辛酸をなめ合った、ただ一人の戦友も今はベッドに寝たきりだ。それを思うと私は何に感謝したら良いのか判断も出来ない。
いずれにしても、私の人生で最も感動に溢れた外遊であった。拙文を取りまとめることにした。これを書くにあたって阪急交通社のガイドブックが大変役に立ち、引用させてもらった。

終わり

▲このページのトップへ